今月の本にかけたお金がかなりの額になってしまいました。

買おうと思って先延ばしにしてしまうことが多く、(そのせいで?)行動も遅くなってしまう、その習慣をやめにしようとのことで中古本で良い状態があったので買っていました。来月買おう→また今度が多すぎる。

 

本は私たちに新しい観点を示してくれます。

それによって自分自身もわかりますし・・・何より面白いですから。

 

私は本の作中のキャラクターによって生きられている感覚です。

彼らに憧れを抱きつつ、そこへ行きたいと行動を起こすのが常です。

だからこそアニメなどは格好の・・・ですが最近の中心は古典です。

ちなみに今回は失われた時を求めて。岩波、光文社がともに出している最中なのでゆっくり読めるだろうと時期もちょうど良い。

 

自分が覚悟を以て動かなければ事態は変わらない。

何を甘えているんだか。

そう考えていた最近でした。

 

プリズマイリヤの新刊ドライ7が発売されましたね。

 

 

士郎と自分がとても重なるようでした。

私も理想に憧れて中身の伴わなかったもの。

私に向けられたメッセージのようで何度も何度も読み返しました。

私も少しずつでも進まなければ

希望が私を導くのではなく私自身が私を導く。

私が初めて感銘を受けたのもそのようなことを題材とした本、デミアンでした。

 

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)

 

 

 

アニメも夏からということで楽しみです。

 

fateについて

fateについてあまり触れることがなかった。

今日は二つ投稿することになってしまうけれど書くこととします。

いつもは日曜日に内省するのだけど祖父母の家へ行ってできなかったので祝日ということを言い訳に内省していました。

 

内省しているときに、改めて理解しました。やはり私の先にあるものはfateでしかなかったから、返さなくてはいけないって。今までfateについてちゃんと書いてこなかった。私の半分を決めたような作品であるのにfateについては何も語れなかった。いいえ、語れなかったのです。

 

fatefate/stay nightPS VITAゲーム)から始まるfateの話を。

私の半分を決めたものがゲーム、アニメであることにどうお思いでしょうか。

きっかけになったに過ぎないけど物語には、言葉には人を殺す力がある。

とはミァハの言ですね。

 (詳しくはハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)より)

 

私は一度自分がまるで入れ替わったかのような感覚を受けます。

それは主に哲学を学び、多くの本を読んだことによって得た感覚です。

私を変えた根本的理由はそれ。

けれどその前にfateがあった。

fateについて一番初めに感じた感想は圧倒的な虚無感、のような違いすぎる価値観といったものでした。感想など書けやしない。感じることで精一杯だったのだから。

一生懸命に生きて散っていった命があった。

理想のために命を懸ける者もいた。

全ての人を救いたいと、私にはみんなと同じように思うことができなかったという人もいた。

 

私の生きていることは何なんだと思った。

それは作品だからこそ描かれるストーリーだ。現実などではない。

触れられるものではない。けれど彼らの意志に憧憬することぐらいは自由だ。

セイバーは・・・私は士郎と同じように神聖なものとみていた。

あのように生きたいと、出来なくてもあのように在りたいって。

ええ、ええ!だからこそ私は自ら神に与えられていたと考えるべきギフトを受け取れなかった弊害もあるのですが(その件はまだ取り戻しがきくのでいいです)

 

そのとき、そう在りたいと憧憬したときから私はいうなら、完璧を求めるようになったのです。生活習慣を正しくし、苦役は引き受けてしかるべきものだと思って(ただの苦役は何も生まない)ただキャラクターに憧れたのではない。そのストーリの織り成す色があまりにも美しくて。”「私が」物語を生きているのではない。私は物語によって生きられる。”たしかこれは池田晶子さんの言葉。

それ以降完璧、いうならば真理を考えるには適格だったであろう哲学に見事にはまってしまった。図書館へ行って本をずっと読んでいた。いつか正解がわかるのではないか、と。その時にデミアンという本を読んだ。アベルとカイン。自らは自らで導かねばならぬということ。そのときから正解を探す、以外にも読書はなくてはならぬものとなった。自身との対話として、慰めとして。

結局哲学は答えを教えてはくれなかった。哲学は自らを導く羅針盤などではない。

逆に私は羅針盤をなくしてしまったのだし。それに哲学は物理、数学と形骸化していっている。ならば、ほかの事柄についても知らねばならないと考えるようになった。

 

hollowは読み物の中では一番読み返しているであろう作品。主に夜を。

バゼットのあの不器用さが自分と重なってしまい、ただの作品としては見れなかった。

私も孤立する無様さよりも、努力をしない無様さの方が耐えがたいことであるのです。何か物事を考えていてもアンリだったらこういうのかな、などと考えてしまう。

物語を完全に受け入れるのは良いことではないのに、私は幾らか失敗したかななんて思ってしまう。実際この観念が邪魔をしたこともあるのだし。皆さんも作品にあまりに感化されるのにはお気をつけて。(私なんか一年ぐらい本で答え探しをせざるを得なかったのですから!)

 

けれど、hateは私の一番先にあった作品です。

こんな作品を書いてくださって本当にありがとうございます。

fateは素晴らしい作品です。でもまあ・・・なんでしょう私の完全な許容範囲はsn,hollow,extra程度になってしまうのですが。もちろん他も見ているのですがどうも楽しむ程度に留まってしまうところ。広がっていくのは喜ぶべきものなのでしょうけどなにか複雑な感情があることも否めません。

 

半ば勢いですので適度に調整すると思います。ただ書きたかったのは何あれ、fateありがとうということ。

無くすもの

いなくなってしまった人を生かすにはどうしたらよいのだろうと思いました。

伝記などを見ているとよく思うことです。

どんなに栄華を誇っても最後には誰もいなくなったな、と。

生かすにはどうしたらよいか、私が思った結論は彼らを受け継ぐということです。

例えばギターならば習っていた人の技術を真似をする、それは習っていた先生の技術を受け継ぐのだから、彼らがそこに生き続けているのではないかと思ったのでした。

 

ほかにも考えや思いや・・・何かが始まるときに思うのは終わるということです。

始まったら必ず終わる。

 

今やこのブログは逃避場所です。

言葉を綴ると見えてくるものもあるし、気づかぬものも勢いで書いてしまいます。

 

現実は止まることなく進んでいくのですね。

良い方にも悪い方にも。この対価はいただけるのですか。

 

 

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 描いてみました。絵を描くのは私の一つの趣味です。

 相変わらず色塗りは難しいし、細かく描くのも苦手。

精進あるのみ。それからこのすば二期おめでとうございます。

毎週楽しませていただきました、楽しみです。

ということでめぐみん頑張ってみt・・・

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人の見ている世界は違うということ

原口統三のような人間でも書き残さずにはいられなかった、私もそう。

こうして書いておかねば不安なの。

平日は触らないと決めているのだけどこのしこりがあっては醜さが見えるからこうして書けば消えるのかテスト。

 

いえ、当たり前のことなんです。

あなただって結婚するだろうし、と言われたことが痛くて痛くてたまらない。

結婚するのが普通だってそうあるべきだということを押し付けられたようだった。

ほかに関しては何も思ってない。

覚悟がないとかこのままでは駄目だとかは分かりきったことだもの。

ただ結婚とか恋愛は私にとって生理的に嫌悪するもの。

嫌悪する、ということは気にしている証拠なのだけど。

親が早々から仲が悪くて互いに悪口を聞いてきた。

それでもって離婚したものの耐えられなくて過去の縁を使いまた復縁する。

それでまた憎みあう、と。

やられたことを忘れたわけでもないのに。

 

でもまあ、幼児期、幼少のころには仲良かったのは救われた点かな。

性格に難があるのは幼少期の問題が多いようだし。

 

父親から女性だからだめだ、出来ない諦めろお前にはできないとずっと言われてきたね。言ってしまえば言葉の暴力よ。

引きずり込みたいからお前は駄目だ駄目だ何回言われたものか。

もう気にしてないけど。許すよ、だけど私もそちらに関しては何もかかわらないから。

 

男性に関してはそのうえ見知らぬ人に歩いていた時ストーカーされたしね。

学校でも私のこと騒ぎ立てて良いイメージがない。

もちろんそうでない人間もいることは分かってるよ。

 

でも一番心に残ってるのは憎んて絶縁した相手に寂しいから存在を求めたという点だよ。

結局こうなのだな、と思ってその関係性そのものを憎んだ。

一例のみで判断するのは愚かなことだ、そんなことは知ってる。

 

私は告白されても毎回断るの、それは永遠に変わることはないでしょう。

その道を選ぶぐらいなら私は

だからリア充死ねとか思わないしむしろそんな些細なことをーーー楽しんでくださいと思うよ。

 

”今は考えられないだろうけど”

今ではない、私はもっと前、中学のころから考えられないのだから。

ああ、弱いな。

それに私はまだまだ未熟なものだ。

誰かが発した言葉に影響されてしまう。

それに嫌悪する。その人はその人の視点でそれを見ているのに過ぎないのに 

 

最近読んだ本はされどわれらが日々で一番心に残っています。

時代の壁は感じざるを得なかったのですが心に何か大切なものを残していった作品でした。節子の手紙で共感できる部分が多かったです。

されどわれらが日々― (文春文庫)

されどわれらが日々― (文春文庫)

 

 

 (追記)

人と話してると涙が出てくるのなんとかしたい

積み重ねた記憶

私はこれだと決めると結構視野狭窄に陥りがちですから、歴史が好きだと気が付きませんでした。お礼申し上げます。

 

世界を勉強していると陥るのは私たちはただ在るだけなのだなということです。

グラックス兄弟は改革に失敗しましたが失敗することは確実にあり、そこにグラックス兄弟がいただけのこと、というようなものです。

感じとしてはヘーゲル哲学が近いでしょうか。そしてそれは私たちにも当てはまる。

 

金銀の光で織りあげて

刺繍を施した天上の布があれば、

夜と、光と、薄明りで作った

青と、薄墨いろと、黒いろの布があれば、

その布をあなたの足もとに広げたろうが。

だが貧しい私には夢しかない。

私はあなたの足もとに夢を広げた。

そっと歩いてくれ、私の夢の上を歩くのだから。

「イェイツ詩集 岩波文庫

 

私が好きな詩の一つですが、歴史を勉強するときにはとても切実に響きます。

私たちは過去の私たちの上にいて、彼らの夢の上を歩いているような錯覚です。こんなことをいうとアンリには自分の世界を否定しているとでも言われそうですが。

 

何も成せなかったとしても(人物が悪しか成せなかったとしても)積み上げてきた時には、歴史には価値があると考えています。この結論は(過程は省略します)散逸構造ミームという概念がなければ考えられなかった考えです、ハイデッカーも環世界には触れているでしょう、ともに理系と呼ばれる分野の用語ですが学問は互いに関わりあっているから理系だ文系だ分けるべきではないと常々考えます。

 

理解のレベルについては一通り理解した程度(理系科目については使えない)においてあと地理と地学(基礎は一通り)を勉強したら高校の科目オールスダディだな、と気が付きました。

 

勉強していった間、信じたくはなかったのですが、やはり得手不得手が存在しました。

センター、二次においてどれだけ勉強しても理科(基礎なし)はできなかった。それに比べ、読むだけで軽々と点数のとれた科目。確実に存在するのですね、能力差は。