積み重ねた記憶

私はこれだと決めると結構視野狭窄に陥りがちですから、歴史が好きだと気が付きませんでした。お礼申し上げます。

 

世界を勉強していると陥るのは私たちはただ在るだけなのだなということです。

グラックス兄弟は改革に失敗しましたが失敗することは確実にあり、そこにグラックス兄弟がいただけのこと、というようなものです。

感じとしてはヘーゲル哲学が近いでしょうか。そしてそれは私たちにも当てはまる。

 

金銀の光で織りあげて

刺繍を施した天上の布があれば、

夜と、光と、薄明りで作った

青と、薄墨いろと、黒いろの布があれば、

その布をあなたの足もとに広げたろうが。

だが貧しい私には夢しかない。

私はあなたの足もとに夢を広げた。

そっと歩いてくれ、私の夢の上を歩くのだから。

「イェイツ詩集 岩波文庫

 

私が好きな詩の一つですが、歴史を勉強するときにはとても切実に響きます。

私たちは過去の私たちの上にいて、彼らの夢の上を歩いているような錯覚です。こんなことをいうとアンリには自分の世界を否定しているとでも言われそうですが。

 

何も成せなかったとしても(人物が悪しか成せなかったとしても)積み上げてきた時には、歴史には価値があると考えています。この結論は(過程は省略します)散逸構造ミームという概念がなければ考えられなかった考えです、ハイデッカーも環世界には触れているでしょう、ともに理系と呼ばれる分野の用語ですが学問は互いに関わりあっているから理系だ文系だ分けるべきではないと常々考えます。

 

理解のレベルについては一通り理解した程度(理系科目については使えない)においてあと地理と地学(基礎は一通り)を勉強したら高校の科目オールスダディだな、と気が付きました。

 

勉強していった間、信じたくはなかったのですが、やはり得手不得手が存在しました。

センター、二次においてどれだけ勉強しても理科(基礎なし)はできなかった。それに比べ、読むだけで軽々と点数のとれた科目。確実に存在するのですね、能力差は。