fateについて

fateについてあまり触れることがなかった。

今日は二つ投稿することになってしまうけれど書くこととします。

いつもは日曜日に内省するのだけど祖父母の家へ行ってできなかったので祝日ということを言い訳に内省していました。

 

内省しているときに、改めて理解しました。やはり私の先にあるものはfateでしかなかったから、返さなくてはいけないって。今までfateについてちゃんと書いてこなかった。私の半分を決めたような作品であるのにfateについては何も語れなかった。いいえ、語れなかったのです。

 

fatefate/stay nightPS VITAゲーム)から始まるfateの話を。

私の半分を決めたものがゲーム、アニメであることにどうお思いでしょうか。

きっかけになったに過ぎないけど物語には、言葉には人を殺す力がある。

とはミァハの言ですね。

 (詳しくはハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)より)

 

私は一度自分がまるで入れ替わったかのような感覚を受けます。

それは主に哲学を学び、多くの本を読んだことによって得た感覚です。

私を変えた根本的理由はそれ。

けれどその前にfateがあった。

fateについて一番初めに感じた感想は圧倒的な虚無感、のような違いすぎる価値観といったものでした。感想など書けやしない。感じることで精一杯だったのだから。

一生懸命に生きて散っていった命があった。

理想のために命を懸ける者もいた。

全ての人を救いたいと、私にはみんなと同じように思うことができなかったという人もいた。

 

私の生きていることは何なんだと思った。

それは作品だからこそ描かれるストーリーだ。現実などではない。

触れられるものではない。けれど彼らの意志に憧憬することぐらいは自由だ。

セイバーは・・・私は士郎と同じように神聖なものとみていた。

あのように生きたいと、出来なくてもあのように在りたいって。

ええ、ええ!だからこそ私は自ら神に与えられていたと考えるべきギフトを受け取れなかった弊害もあるのですが(その件はまだ取り戻しがきくのでいいです)

 

そのとき、そう在りたいと憧憬したときから私はいうなら、完璧を求めるようになったのです。生活習慣を正しくし、苦役は引き受けてしかるべきものだと思って(ただの苦役は何も生まない)ただキャラクターに憧れたのではない。そのストーリの織り成す色があまりにも美しくて。”「私が」物語を生きているのではない。私は物語によって生きられる。”たしかこれは池田晶子さんの言葉。

それ以降完璧、いうならば真理を考えるには適格だったであろう哲学に見事にはまってしまった。図書館へ行って本をずっと読んでいた。いつか正解がわかるのではないか、と。その時にデミアンという本を読んだ。アベルとカイン。自らは自らで導かねばならぬということ。そのときから正解を探す、以外にも読書はなくてはならぬものとなった。自身との対話として、慰めとして。

結局哲学は答えを教えてはくれなかった。哲学は自らを導く羅針盤などではない。

逆に私は羅針盤をなくしてしまったのだし。それに哲学は物理、数学と形骸化していっている。ならば、ほかの事柄についても知らねばならないと考えるようになった。

 

hollowは読み物の中では一番読み返しているであろう作品。主に夜を。

バゼットのあの不器用さが自分と重なってしまい、ただの作品としては見れなかった。

私も孤立する無様さよりも、努力をしない無様さの方が耐えがたいことであるのです。何か物事を考えていてもアンリだったらこういうのかな、などと考えてしまう。

物語を完全に受け入れるのは良いことではないのに、私は幾らか失敗したかななんて思ってしまう。実際この観念が邪魔をしたこともあるのだし。皆さんも作品にあまりに感化されるのにはお気をつけて。(私なんか一年ぐらい本で答え探しをせざるを得なかったのですから!)

 

けれど、hateは私の一番先にあった作品です。

こんな作品を書いてくださって本当にありがとうございます。

fateは素晴らしい作品です。でもまあ・・・なんでしょう私の完全な許容範囲はsn,hollow,extra程度になってしまうのですが。もちろん他も見ているのですがどうも楽しむ程度に留まってしまうところ。広がっていくのは喜ぶべきものなのでしょうけどなにか複雑な感情があることも否めません。

 

半ば勢いですので適度に調整すると思います。ただ書きたかったのは何あれ、fateありがとうということ。